信仰の歩み
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城西教会に来られている方に、日常生活の中で感じておられることや、ご自身の信仰についての思いを寄稿していただいています。
ご質問やご意見がありましたら、牧師までお知らせください。 2013年6月
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「私の信仰告白」 2014.01.26 バプテスマ(受洗) 石田静男
(1)はじめに
私は、1933年、筑後川沿いの村地主の家に生まれました。
祖父は医者で村長、父は昔ながらの家庭薬の製造・販売をしていました。従って戦前・戦中の小学校までは比較的恵まれた環境下で、私は川遊びと草野球に興じていました。
しかし敗戦を機に社会状況は一変しました、農地解放、家庭薬業界の衰退、祖父の高齢化と家計は傾きました。
父は会社と病院を整理して、福岡に出て他の商売を転々とし、家族も田舎と福岡に別れ住むことになりました。
祖父母と郷里に残った私は、野球部に居ながら、田舎での中学・高校時代を楽しんでいました。
そして大学は、国立1期校に通らず、Ⅱ期校の鹿児島大学を選び、南下することになりました。
少年から青年期への最初のつまずき、仕送りなしの新生活の誤算。この失敗と誤算の影響は当時の私には結構大きく、入学式も出ずに先ずアルバイト、それから左翼学生が集まる研究会に入部し、その仲間達と自治会の再建、学園民主化と環境整備の要求、、生協設立、さらに原水爆禁止、沖縄復帰、青年・学生の世界平和友好祭どなどに打ちこみました。
私自身も第1回の原水爆禁止世界大会に参加して祖父の死に目に間に合わなかったり、勉学よりアルバイトと生協と学生運動の3本立ての大学時代でした。
それでも入学直後に買った最初の本は、マルクス、エンゲルスの「共産党宣言」とポケットサイズの「新約聖書」でした。
聖書は開かぬままに終りましたが、この青年期の思想と運動が、良くも悪くもその後の私の半世紀を越える生協人生と社会活動に連なることになりました。
家庭的には、連れ合いはミッションスクールの教員で、結婚後にクリスチャン。長女は牧師と結婚して教会の運営に携わり、次女も教員しながら、我が家では第1号のクリスチャン。
そんな家庭を持ち、鹿児島でも福岡に来ても、教会の特別な集いにはしばしば参加しながら、今日まで、一定の理解者、協力者の立場に留まり、いわばサポーター的枠から、頑固に、一歩も足を踏み出す事はありませんでした。
(2)キリストとの出会い
そこで私のキリストとの出会いについて振り返って見ます。
最初に思い出すのは、少年・少女向けの世界名作選集からの一作で映画にもなった「レ・ミゼラブル」。泊めてもらった教会で銀の燭台を盗んだ犯人を神父が「盗んだのではない、与えたのです」と弁護して警察の追及を交わす場面。
子供の私にはまったく考えたことも無かった罪びとへの〔愛〕というか、弱者への「寛容」に驚き、大きな感動を受けました。
それから40台の中頃だったでしょうか、家の近くにあったミッションスクールの文化祭で聞いた講演の一端です。
講師は淀川キリスト教病院の終末期医療に携わるドクター。「私は医師として何百人もの人の最後を看取ってきました。その経験から言えることは、ほぼ例外なく、その人の生きざまが死にざまです」。
死を自分のこととして、あるいは今をどう生きるのかということとの関係で真面目に考えたことがなかった私には、「死に方」、「生き方」を初めて正面から鋭く問われる衝撃的話でした。
私が教会に通うことになった背景の一つに、大学入学以来半世紀以上も同じような人生の選択をし、家族ともども、交わりを続けてきた無二の親友の死がありました。
クリスチャンの娘たちからの聖書を読むことの半強制的「勧め」や「点検」の電話、家では連れ合いのつぶやき、それに大病した時、受けました教会関係の方々からのお祈りや励ましの数々、その多年の重なりの上により直接的には一昨年のクリスマスの前、鹿児島時代からよく知る飛永夫妻との再会があり、決定的には「牧師を同伴して訪ねたい」との「脅迫」的勧誘に屈しての参加でした。
しかし、あれもこれも、私が教会に足を運ぶ事になった背景であったり、動機ではあっても、より内なる私の心を動かしたのは、齢80にも達して、自分の人生、これでほんとに良かったのか、これで一人前にチャンと死ねるのかと自分に尋ねて見た時、いまだ何か満たされぬものを残している、もっと心の充実と納得、人生への希望と感謝を感じられる生き方、考え方があるのではないのか?そんなことを思う時、ふつふつと感じるものがあったような気がします。
(3)教会でのこと
教会で最初にお会いしたのは梅崎牧師でした。先生は会社努めの絶頂期にあるとき、最愛のご家族を続けて失われ、その不幸のどん底でキリストとの出会いがあり、そこから這い上がるようにして神学部に復学され、今日の役目を果たされていることを知り、大変感動もし、改めて科学や思想ともまた違った宗教独自の力があることを考えさせられました。
それから間も無くの頃、分級で安藤先生とたまたま「死」について意見を交わす時間がありました。
私の常識的見解対して、反論としてでなく、自らの確信として「確かにどんな死を迎えるか分からない.のたうちまわることだってあるかも知れない。
しかしキリストに会える喜びがあればどんな苦痛にも耐えられる。私は死を恐れない」と堂々というより、当たりまえのような態度でのその言動に、私は圧倒されました。
続けて寺園先生帰国された直後のバルト神学研究会でのことです。帰国直後でもあり、私はどんなドイツの土産話が聞けるのかなぐらいの関心で参加しました。
ところが、いきなりバルト神学書の参加者輪読。そして先生のショートコメント。 初めて読む難解なバルト神学に私は何を聞いて良いかも分らず、「聖書は日本の神話、民話のようなもので、科学的、歴史的に確証できないようなことを神の技、神の言葉としたのではないのですか」と云うようなことを云ったかと思います。
先生は「バルトはもともと不十分なる人間が、神をあれこれ論じたり、解釈する前に、まず全知全能の神の存在が先にあり、その神の人間に対する技、言葉を、どう正しく受け留め、解するかとの立場です〕と云うような回答だったでしょうか。
その直後は何か禅問答での回答を聞いているような感じでいましたが、次第に私が「科学的認識」とか当然の思考方法として固持していたことの根本的見直し、転換を示唆されたような気がしてきて、とてもタイムリーな研究会だったと思っています。
その他にも色々まだありますが、実は私が教会に出入りして、最も驚き,感心していることは、新しい人を迎えるときの信者の皆さんの表情や態度です。
心からの喜びや歓迎の気持ちなしには、いわゆる「隣人」への思いなしには表れない、教会固有の神の力でしょうか?
私もこの半世紀、いろいろな地域・大衆組織にも関係して来ましたが、こんなに一人ひとりに目を向け、、喜んで迎えて下さる組織を他に知りません。
今日の私のバプテスマに向けてだけでも、古くからの鹿児島からの方々も含めて沢山の皆さんから喜びと期待と祝いの言葉をいただきました。
考えてみますと、今回の私のバプテスマは、この方々への私のささやかなお返しのような気さえしています。
正直に申し上げて、今の時点では私の信仰の成長の結果としてのバプテスマと云うより、自分の人生の転換、再生への思いと多くの皆さんの好意と期待に報いたい気持ちが主になっているように思われます。
また、神のしもべとなり神の喜びを第一義とすると言う、本来の立場にはほど遠おい段階での第一歩だと自覚しています。
結局我がため、人のためが先行する立場、レベルからの決心、覚悟になっているのかも知れません。
しかし同時に、自己のため、人のためを除いたところでの「神のため」があるのだろうかと思い悩みます。
見えるものより見えないものが大事で、その見えざるものを信ずるのが信仰だとすれば、私の信仰のレベルは未だ初歩的段階に留まっていいるのだと思います。
しかし、イエス・キリストが私の罪のために死に、私に新しい命をの知恵を与えて下さったことを仰ぎつつ「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
その中で一番すぐれているのは愛です」(コリント13一13)という御言葉を生きたいとおもいます。
これから更に聖書のまなびを深め、聖書の神髄を求めて新たなクリスチャン人生を歩んでいきたいと願っています。
その第一歩を刻みたい、その努力を決意しています。教会の一員に加えてください。よろしくお願いします。
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